『戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)』読了

たいへんすばらしい。「人殺し」に関わるコンテンツを手掛けるなら必読の書かとおもわれます。
内容に関してはすばらしいレビューが多数あるので割愛。
読んでいて妄想したことを少し。

歴史上、驚異的な強さを発揮した戦闘集団というのが数多く存在する。本書を読むまでは、強さの理由はよほど身体的に優れていたのだろう、ということぐらいしか感じなかったが、殺人に対する抵抗感がなんらかの理由で抑えられていたのでは?というアプローチもできるなと。
例えば、新撰組。鉄の掟にみられるように非常に強い権威者からの要求があった。また壱番隊、弐番隊(だったかな?)のように集団の近接度を高める組織編成。尊皇攘夷という正義の御旗。倒幕派国賊と罵り社会的、倫理的距離をおくことによって非人間化する。と、見事に本書の殺人素因モデルにはまるわけだが、逆にいえば、これだけの条件がそろってはじめて驚異的な強さが発揮されるのかなと。
本物のサムライというのも、本書の中で述べられてる”2%の先天的に殺人に対する抵抗を感じない人”に相当したのではないかなと。強い=平気で人を殺せる人。身分制度で武士が頂点であったことも殺人抵抗を軽減するのに役立っていたとおもわれる。ついでに、背後から斬りつけることが戦術的に卑怯ということよりも、殺しのスペクトルがまったく異なることに本書を読んで気付かされた。相対峙し、相手の表情を見、心の動きを感じとったうえで斬りつけることの重み。AとCぐらいステージが異なる。
宗教によって束ねられた軍隊が強いのも納得できる。なにせ異教徒は悪魔なのだから、これ以上の非人間化はないでしょう。
近代になってようやく人権が広く認められるようになってきたが、過去には人を非人間化する社会構造が日常的に存在し、それらも殺人を容易たらしめる一因になっていたのではないかと。

このような構造をノンフィクションの中に見つけるのはとても興味深いことなのだけど、フィクションに取り入れるとなるとドラマチックな味付けが相当必要になりそうだ。

それと気になったのは章末のメディアの暴力表現と殺人の関連性のところ。この手の議論にはバカバカしさしか感じていなかったが、今回は唸らされている自分がいる。人は人を殺せないのに、なぜ殺せるようになったのか?ベトナム戦争の発砲率95%はいかにして達成されたのか?それは驚くほど単純で、リアルな訓練をすることだった。リアルな暴力表現を見たり、リアルな殺人ゲームをすることによって殺人への抵抗が少なくなっていくことはどうやら間違いないのだ。ゲームの表現はますますリアルになっている。軍隊の訓練では上官による命令がなければ絶対に発砲してはいけないということも合わせて条件付けされるわけだが、ゲームでは好きな時に好きなだけ発砲できる。こうした状況を野放しにして果たしていいものだろうか?などという野暮なことを考えずにはいられなくなった。規制というのは即効性はあるが根本的な解決にならないようにおもう。大事なのは、なぜそれが危険であるかを理解することではないかと。ただ、全ての人が理解するための時間を持てるわけではない。こういうことこそ学校教育で教えるべきだが、時代の早さに教育が追いつけない。この辺が難しいところ。