価値観の多様化とエンタテインメント

 ”書くことは考えることなり”をモットーに乱暴に文章にしてみる。
 いま、親と子供が同じ遊びを楽しむという機会はあるだろうか?戦前ならば、子供達が遊んでいたメンコに大人が参加して技を披露したり、子供の凧揚げを手伝っているうちに親の方が夢中になったということもあったようだ。現代においては、ケータイ、インターネット、DVD、ゲームなど遊びが多様化し、親がその遊びの内容についてほとんど知らないということが多いのではなかろうか。戦後は親と子供が同じ遊びを共有できない最初の世代といえるかもしれない。
 さて、戦後、こうした新しい遊びの価値観は「ブーム(社会現象)」と呼ばれるものをきっかけに生み出されてきた。テレビ、ビデオ、ゲーム(インベーダー、ファミコン)、インターネット。そもそも、この「ブーム」とはどういうものであろうか?価値観に限定して考えてみると、次のようにいえるのではなかろうか。「ブーム」が出現したその時、各々のそれに対する価値観が等しいと。インベーダーゲームが出たとき、大多数の人間が我を忘れて熱中した。テレビ放送が始まったときも同じような状況だった。我を忘れるとはどういうことか?それはすなわち価値判断ができない状態だということではないだろうか。価値観がまだ定まっていないということである。その後「ブーム」が去ると、各所からその価値が評価され、そこで生き残ることができたものは「ジャンル」として存続する。新しい価値観の誕生である。これを”水平方向”の価値観の広がりとしよう。この水平方向の価値観は老若男女、誰でも(国民の4〜5割?)受け入れられるものであり、価値観の共有が可能である。
 「ジャンル」として認知されると、資本、商品が投下される。それによって、新たな評価が積み重ねられ、価値観が成長してゆく。これを垂直方向の価値観の広がりとする。垂直方向の価値観がもっとも成長しているとおもわれる「書籍」についてみてみる。1冊の本は、それ単体でも楽しめ、価値を評価できる。だが、その本を書いた著者が他にどんな本を執筆しているか、類書にはどのようなものがあるか、それらの時系列と時代背景などを知っていると、その価値は何倍にも増幅される。野球やサッカーの観戦も同様である。ただ漫然と見ているだけでは、水平方向の価値しか見出せない。選手の経歴や過去のデータと照らし合わせることで何倍も楽しめるのである。
 ここで、水平方向の価値観と垂直方向の価値観の違いを明確にしてみる。例えば、レジャーでスキーをする場合。いつでも始められるし、いつでもやめることができる。スキーをやった次の日からスキーのことはすっかり忘れてしまってもかまわない。それによってスキーの価値が変わることもない。来年も同じようにスキーを楽しむことができる。また、スキーをすることと、その後に温泉に入ること、食事をとることも同列の価値観の中にある。一方、国体を目標にスキーをする場合。幼少の頃からスキーを始める。練習を欠かすこともできない。技術を磨き維持していくことに時間と費用が非常にかかる。成長によって価値観が大きくかわってくる。スキーでしか体験できない価値も増えてくる。価値観の高度化・複雑化なのである。
 では、いまエンタテインメント業界に起きている多様化とはどのようなものだろう。昨今の映画、音楽、書籍、ゲーム・・・それらの嗜好は多岐にわたり今も拡大を続けている。これらは、垂直方向への価値観の急速な成長と、それに応える生産能力によって生み出されたとおもわれる。まず、戦後から半世紀をかけて価値観の基礎が十分に熟成された。特に日本においては、敗戦後にそれまでの価値観がリセットされ、新たな価値観を創ろうとする気概に恵まれていた。次に、高度経済成長の終焉によって、余剰生産力ができた。これらは多様化する価値観へ対応すべくシフトしていった。最後に、IT革命によって垂直方向の価値観の分析、管理が進み、その成長を促した。(この段落、かなり妄想w
 それでは、エンタテインメントの多様化によってなにが起きているのだろうか。多様化とは、先に述べたとおり、垂直方向への急速な成長と、それに応えるべく生み出された大量のコンテンツである。そして、垂直方向への価値観を享受するためには多大な時間と労力を必要とする。だが、多くの人は時間の経過とともに垂直方向への価値観を維持していくための時間・財を減少させていかざるをえない。その結果、垂直方向への価値観の維持を放棄する者、特定のジャンルへ寡占化していく者(ガンおた)、どこまでも裾野を広げていく者に分類されることになる。それはあたかも焚き火の木の葉のように、若い時分は興味にまかせその炎の中で踊り、そのまま燃え尽きてしまうもの、勢いに乗って高く舞い上げられその後ランデブー地点を探すもの、いつまでも上空をひらひらとまうもの、のようである。垂直方向への価値観の維持を放棄するとは、つまり昔風にいうと”大人になる”ということである。戦前は、みなが大人になれた。というより、それより他に選択肢がなかった。なぜなら前述したように、戦前は垂直方向の価値を高める条件がそろっていなかったのだから。それは一部の金持ちにだけ許された特権だった。その特権をみなが等しく手に入れた今、多くの者が垂直方向への価値を維持しつづける選択をとりつつある。彼らは、かつて毎日新聞に目を通すのが習慣になっていたように、自分のお気に入りのWebページをチェックせざるをえない。
 多様化に対するささやかな抵抗
 つまらない、支離滅裂、飽きたので辞めます。(´Д`;)